<秋の夜の長物語>
(あきのよのながものがたり)
(二)



天狗に誘拐されてしまった梅若公と童は、
大峰の釈迦ヶ嶽に連れて行かれ、
石の楼に押し込められてしまいました。

昼夜の境なく、月日の明りも射さぬ
闇に閉ざされた楼には、
たくさんの道俗男女が捕らわれているようで、
暗室の中に、ただ泣き声だけが響いているのでした。

一方その夜、梅若公が姿を消しているのを知った門主は、
ただ事では無いと歎き、尋ねて回りましたが
行方を知る人はいませんでした。

ややあって、「この間、忍びて言い交わす山徒があったと
聞いたが、其奴が連れ去ったのではないか」と桂海律師を疑い、
この誤解が引き金となって、寺門(三井寺)と山門(比叡山)
との間に、熾烈を極める争乱が起こってしまうのでした。

まず、父の大臣が知らぬはずはないと、
梅若公の生家へ押し寄せた三井寺の衆徒たちは、
邸宅をことごとく焼き払ってしまいました。
それでもなお憤り冷めやらぬまま、
延暦寺と三井寺との紛争の火種であった
「三摩耶戒壇」を寺中に建立しました。
(※戒壇とは、僧に戒を授ける為に設けられる壇のこと)

その事件を聞いた山門は、
「戒壇建立の件で三井寺へ発向するのは過去に六度なり。
公家や武家に訴うるまでもない、時を移さず押し寄せて焼き払え」と、
十万余騎を七手に分けて三井寺へ攻め寄せました。

桂海律師は、「我が身より事が発した災いなれば、
人より先に一合戦して、名を後記に留めんとする物を」と思い、
合戦の最中、同胞とともに獅子奮迅の立ち回りをしました。
そして、この争乱により三井寺は、新羅大明神の社壇を残して、
すべて灰燼と成り果ててしまったのでありました。


梅若公は、寺がそのような事になっているのも知らずに
石の楼に押し込められたまま泣き沈んでいる所へ、
天狗たちが寄り集まって談笑している声を聴き、
その内容から三井寺の惨状を悟りました。

自分のせいで寺が滅びてしまったのだと思えども、
詳細を尋ねられる人もなく、
ただ桂寿とともに打ちひしがれて
泣く事以外に為す術もありませんでした。

そんな折、石の楼の中へ、八十余りの
老翁が一人、
天狗に捕らわれてやって来ました。
日でりの雨雲のはずれから、
踏み外して土に落ちていた所を捕らえられたと云う
その不思議な老翁は、
稚児と童が涙で袖を濡らしているのを見て、声を掛けました。
そして梅若公と桂寿は、事情を老翁に切々と語りました。

『ならば、我に取りつかせ給え。たやすく都へ送って遣ろうぞ』
話を聞いた老翁はそう言うと、
梅若公の袖を絞って涙の露を左の手に取ると、
しばらく転がし始めました。
そのうちに露は鞠ほどの大きさになり、
これをまた左右に二分して揺るがすと、
二つの露は更に膨れ上がって、やがて大洪水となりました。
この時、老翁の姿はたちまちに大きなる龍神となって天を閃き、
天狗たちは皆、恐れをなして逃げ去って行きました。
龍神は石の楼を蹴破り、梅若公と童の他にも、捕らわれていた
たくさんの人々を雲に乗せると、神泉苑の辺りに降ろしました。


龍神の力によって助け出された梅若公と桂寿は、
まずは故郷の花園へ行きましたが、
既に其処は焼き払われて、
見るも無残な様相と成り果てていました。
三井寺を訪ねてみれば、また跡形もなく焼失しており、
梅若公は深く悲しみ、自責の念から命を絶つつもりで、
文を一通書いて桂寿に渡し、二人は別れました。
そうとは知らず、文を預かった桂寿は急いで山へ登り、
桂海律師のもとへと届けました。

桂海律師は、童の姿をひと目見るなり物も言えず、さめざめと泣きました。
ややあって、梅若公からの文を受け取り目を通して
それが辞世の詩であると知った律師は慌て、
とるものもとりあえず、桂寿を連れて石山へ馳せました。


石山へ向かう途中、大津の辺りで、
「稚児が身投げした」と旅人たちが悲しみに暮れており、
調べてみると、梅若公が肌身離さず持っていた品々が
現場で発見され、律師と桂寿は後追いしようと
しましたが、人々が必死に止めました。
そして舟に乗って探し回り、引き上げた時には、
入水した梅若公は既に冷たくなっていました。

桂海律師は歎き悲しみ、山へは帰らず、
梅若公の遺骨とともに行脚し、「瞻西上人」と名を改めて、
西山の岩蔵と云う地に庵室を結び、
後生菩提を弔いました。
桂寿もまた、髪を落として法師となり、高野山に篭もりました。


それより後、新羅大明神が顕現し、梅若公が観音の化身であった事、
三井寺の焼失は、衆生を救う為の方便であった事などを示し、
瞻西上人は人々から敬慕されたのでありました。



むかしみし 月のひかりを しるべにて こよひや君か にしへ行らむ


<参考文献:「室町時代物語大成 補遺一」松本隆信/編 角川書店
「御伽草子 その世界」石川 透/著 勉誠出版>